雨が降っていた。
それも、ただの雨じゃない。どこか執拗で、まるで街のすべてを洗い流そうとするような、冷たい夜の雨だった。
終電を逃したわけじゃない。ただ、帰る理由がなかった。
仕事帰りのスーツ姿のまま、俺は駅前のファミレスに入った。24時間営業のその店は、いつもと変わらず、明るすぎるくらいの照明と、どこか安っぽい安心感で満たされていた。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
機械的な声に頷きながら、窓際の席に案内される。ガラス越しに見える街は、雨粒に歪んで、現実感を失っていた。
メニューを開くが、正直、何でもよかった。温かいものなら。
「ドリンクバーと、ハンバーグセットで」
注文を済ませて、俺はぼんやりと窓の外を眺めた。ネオンが滲んで、まるで水彩画のように流れている。
その時だった。
「すみません、ここ…相席いいですか?」
顔を上げると、一人の女性が立っていた。
傘を畳んだばかりなのか、肩口が少し濡れている。年齢は、同じくらいか、少し下だろうか。落ち着いた雰囲気の中に、どこか疲れたような影があった。
「…どうぞ」
思わずそう答えてしまった。こんな時間に、知らない人と相席なんて普通なら断る。でも、その時はなぜか断れなかった。
「ありがとうございます」
彼女は小さく微笑んで、向かいの席に座った。
しばらくは、互いに何も話さなかった。店内に流れるBGMと、食器の音、遠くの笑い声。それだけが空間を埋めていた。
やがて彼女が口を開いた。
「変な時間ですよね、こんなところで」
「そうですね」
「でも、こういう時間じゃないと来ないじゃないですか。ファミレスって」
「確かに」
それだけの会話なのに、妙に心地よかった。無理に話そうとしなくても、会話が続く感じ。
料理が運ばれてきて、俺は黙々と食べ始める。彼女もパスタを注文していた。
「お仕事帰りですか?」
彼女が聞いた。
「まあ、そんなところです」
「お疲れ様です」
その一言が、やけに染みた。
「そちらも?」
「ええ。ちょっと…うまくいかなくて」
彼女はフォークをくるくる回しながら、少しだけ視線を落とした。
「仕事ですか?」
「仕事も、ですけど…人間関係っていうか」
「ああ…」
それ以上、深くは聞かなかった。でも、わかる気がした。
「逃げてきたんです」
彼女はぽつりと続けた。
「家にも帰りたくなくて、気づいたらここに」
「…同じですね」
思わず笑ってしまった。
彼女も少しだけ笑った。
「こういう場所って、なんかいいですよね」
「どういう意味で?」
「誰にも干渉されないのに、完全に一人じゃない感じ」
その言葉に、妙に納得してしまった。

ファミレスは、不思議な場所だ。誰もがそれぞれの事情を抱えているのに、互いにそれを知らないまま、同じ空間を共有している。
「名前、聞いてもいいですか?」
彼女が言った。
「…佐藤です」
「私は、由美です」
それが、俺たちの最初の自己紹介だった。
それから、少しずつ会話は増えていった。
好きな食べ物、休日の過ごし方、最近観た映画。どれも特別な話ではない。でも、どこか安心できる話題だった。
気づけば、外の雨は少し弱くなっていた。
「雨、やみそうですね」
俺が言うと、由美は窓の外を見て、少しだけ寂しそうに笑った。
「やんでほしいような、ほしくないような」
「どうして?」
「だって、雨がやんだら、帰らないといけないじゃないですか」
その言葉に、胸が少し締め付けられた。
「帰りたくない場所があるって、つらいですね」
「でも、いつまでもここにはいられないですから」
彼女はそう言って、コップの水を一口飲んだ。
しばらく沈黙が続いた。
でも、それは嫌な沈黙じゃなかった。
「また、会えますか?」
気づけば、俺はそう聞いていた。
由美は少し驚いた顔をして、それからゆっくりと微笑んだ。
「偶然なら、いいですよ」
「偶然?」
「こうやって、たまたま会うのがいいんです。約束すると、現実になっちゃうから」
その言葉は、少し切なかった。
でも、どこか美しかった。
「じゃあ、またこの時間に来れば…」
「それは偶然じゃないです」
くすっと笑う由美。
「でも、もしまたここで会えたら」
「はい」
「その時は、今日の続きをしましょう」
「…わかりました」
時計を見ると、深夜2時を回っていた。
由美は立ち上がり、コートを羽織った。
「そろそろ行きますね」
「俺も」
二人でレジに向かう。
会計を済ませて、店の外に出ると、雨はほとんど止んでいた。
夜の空気は、さっきよりも少しだけ澄んでいる。
「じゃあ」
「はい」
それ以上の言葉はなかった。
由美は軽く手を振って、夜の街へと歩いていった。
その背中を、しばらく見送った。
翌日、俺はまた同じ時間にそのファミレスに来た。
偶然なんて、そう簡単に起きないとわかっていながら。
窓際の席に座り、同じハンバーグを注文する。
時計の針が進む。
1時間、2時間。
彼女は来なかった。
それでも、不思議と落ち込むことはなかった。
あの夜は、確かに存在していたから。
そして、その一週間後。
また、雨が降った。
俺は吸い寄せられるように、そのファミレスへ向かった。
ドアを開けた瞬間、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
窓際の席。
肩口が少し濡れている。
俺は思わず笑ってしまった。
ゆっくりと、その席に近づく。
「すみません、ここ…相席いいですか?」
彼女は振り返って、少し驚いた顔をして、それから、あの日と同じように微笑んだ。
「…偶然ですね」
「ええ、偶然です」
外では、また雨が降り続いていた。
でも、今度は少しだけ、その音が優しく聞こえた。
